事務局 忠夫
3月も間近となり、今冬の寒さも峠を越したようです。サークル「囲炉裏」は、1月22日(土)に第96回“対面式”グループワークを開催しました。その日も厳しい寒さでしたが、会場から見える和風庭園では、梅のツボミがずいぶん大きくなっていました。
参加者お一人(3回目の参加)を迎えてのグループワークとなりました。本当に久しぶりの“対面式”グループワークでしたが、100回近いグループワークの積み重ねによる「場の力」を感じさせられました。
今回のグループワークでは、参加された方の抱えている悩みや不安を中心とするいくつかの話題について、共に語り・共に聴きながら濃い時間を過ごせたと思います。その中には、私がスタッフブログに何回か書いたA女の話も出てきました。
A女は、間もなく1歳10ヶ月になります。A女の動作・表情を見ていると、大人の言っていることをある程度理解しているように見えます。例えば、「いち(1)」と言えば人差し指を立て、「に(2)」と言えば親指と人差し指を立てます。それなのに、「イチ」とか「ニ」と口では言えない時期がかなりありました(数ヶ月前から言えるようになりましたが)。
分かっているのに、また音声を発することができるのに、「イチ」とか「ニ」と言えないのはなぜなのか? 不思議に思っていました。これに対する答えは、育児書に書いてあることかも知れませんが、自分の頭で考えて、なかなか、答えが見つかりませんでした。
ボンヤリとそんなことを思っているとき、中学校や高校で英語の発音を習ったときのことを思い出しました(70年ぐらい前の話)。教科書・参考書に「唇のかたち」と「舌の位置」を描いた図があり、それを見ながら発音の練習をしたように思います。
でも、日本語の発音の仕方を「唇のかたち」や「舌の位置」を示す図を使って、1〜2歳の幼児に教える人はいません。幼児は、大人がしゃべっている声を聴き、そのときの唇のかたちを見ながら、自学自習で、日本語の発音を身につけていくのです。
このように考えると、「いち(1)」や「に(2)」を理解する時期と「イチ」や「ニ」を口に出して言う時期にズレがあることに自分なりの納得ができました。
A女には、オギャーなどという「発声」はできるけれど日本語の「発音」ができない時期が1年以上あった訳です。これからは、思ったことをしゃべるようになっていくのでしょう。
先日(02/17)、朝日新聞朝刊の「折々のことば」欄に『なんで、頭のなかで「こう言おう」と思わなくても人はしゃべれるの?』という5歳の女児の言葉が出ていました(古田徹也『いつもの言葉を哲学する』から)。これは、5歳の女児が自身の体験に基づいて発した問いなのでしょう。
これを私の言葉で云い替えれば『自由に日本語の「発音」ができるようになっているので、自分の思いを「こう言おう」と頭の中で決めてから口に出すという手順は必要ない。自分の思いは、そのまま言葉(日本語)になって口から出てくる』ということになります。
「思う私」と「しゃべる私」を分けて考えてみます。数ヶ月前までのA女には「思う私」と「しゃべる私」の間には高いバリアがあり、思っていてもしゃべれない「私」がいました。「折々のことば」欄の5歳の女児の場合には、「思う私」と「しゃべる私」はほとんどバリアフリーでつながっています。5歳の女児の中では、2つの「私」が共存しているのです。
「思う私」と「しゃべる私」が共存しているときに、「私」の意識の世界全体を見渡すためには、「しゃべる私」の言葉(声)だけでなく「思う私」の言葉(動作・顔の表情など)も聴く必要があります。これが“心を込めて聴く”ということなのでしょう。